墨子の思想2
前回墨子の思想を触れましたが、今回も、古代思想を振り返ることで、現代を生きる上での指針としたいと思います。

前記、彼は中国の歴史の戦国時代初期の人と紹介しましたが、当時の中国はすでに戦国時代に衰退していた周王朝はさらに、権威を落とし、大小様々な都市国家が派を競い、領主、貴族階級は衰え、代わって地主階級や商工業者がのし上がってきます。





もちろん、新しい領地獲得のための戦争は日常茶飯事で、一国内でも卿大夫同士や、諸侯での権力争いの「内憂外患」の様相を表してきました。

墨子は初め「魯(ろ)」の国で儒家について思想を学んだとされています。この国はかつて「孔子」が学問を修めさせるために多くの、弟子を取っていた儒家伝統の地でもあり、「詩」「書」を彼が習得したことは想像に硬くありません。

ただ、孔子を代表とする「儒家」は人間の倫理的向上によって、社会規範を構築する思想ですが墨子の時代には形骸化されており、その思想は儒家は「冠婚葬祭」の儀式だけを重んじ、例えば、王侯貴族などの弔い方やこと細かく、喪服の期間を3年とするなど、「礼」だけを強調する、「弔い業者」に成り下がってしまったということです。従って、彼らは一般民衆の思想家ではなく、王侯貴族の寄生者ということでしょうか。

この根拠は、中国国内で数多く発掘された遺品で確認できます。

その儒家と袂を分かち、やがて反駁していきます。(墨子・非儒篇)

墨子が台頭した手工業者は、当時の社会では下層の身分でした。しかし、だからこそ、当時の民衆が貴族階級や諸侯らが引き起こす戦争を憎み、その迫害からいざ城を防御すればいいかという実践的な思想の実現をしていきました。

彼の弟子はやがて大きくなり、儒家と対抗する「墨家」という2大思想まで発展していきました。
儒家の「礼」、つまり「形式主義」による非能率的な煩雑な出来事、例えば、喪服期間の長さで生産活動がストップすることに異議を唱えたので、儒家が理想とする「礼」を重んじる「周王朝」より、それ以前の「倹約」を重んじる「夏(か)」の社会を理想としました。したがって、弟子には過酷とも言うべき、粗衣粗食に甘んじ、昼夜を分かたず働き続けました。自己犠牲の精神が美徳とされたのです。

墨子は「夏」王朝の聖王「禹(う)」が黄河が氾濫し、洪水になった時、率先してシャベルを持ち、モッコを担いで自宅の前を通過しても、洪水を鎮めるために立ち寄らなかった。「禹」は聖人であるが、聖人にしてもこのような苦労をした故事を自己のポリシーと位置づけたのでしょう。

その理想を実現するべく、行動範囲は広く彼が遊説した諸侯や王にが斉(せい)の田和(でんか)楚(そ)の恵王など枚挙に暇はありません。また、単に理想を唱えたのではなく、小国を大国からの「侵略戦争」からも救っています。

墨子の編著の中の「公輸篇(こうゆへん)」には、大まかにはこう書かれています。大国の楚が、小国の宋(そう)を攻めようとしたときのこと、門弟三百人を引きつれ、宋に赴き城の防備を固めさせ、自身は単身、楚の王に謁見し侵略戦争の愚かさを説いています。

しかしながら、権力に寄生した「儒家」は生き残りましたが、「墨家」はその後、分裂し、亜流ができて衰退し「秦の始皇帝」の「焚書坑儒」の対象となり、現在に残る「墨子」は、散逸してしまった文章で成り立っています。

それでも、過去の歴史から現在のあり方を俯瞰し、未来へと受け継いでいく過程で、このような先人の知恵は私たちに大きな「恩恵」を与えてくれるでしょう。
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by rosso_fiolencino | 2005-12-04 00:03 | 諸子百家
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