墨子の思想4・兼愛篇
墨子の「兼愛篇」の続編を記述します。
(原文の書き下し文は、長くなるので省略しました)

墨子先生は言った。
「我々は、他の意見に反対する以上、それに変わる『対案』を示さなければならない。もし、相手の見方に反対するだけで、それに変わるような別の見識を示さねば、それは、水を用いて水を救い、火を用いて火を救うようなものである。

そのような、論法は正しいとは言えない。
  
そこで、私は『別愛』に代えて『兼愛』を主張することにする。

『別愛』に代えて『兼愛』を主張する根拠は何故か?



もし、諸侯が、自分の国同様に他国のために尽くすというならば、戦争は起こるはずはない。何故ならば、相手をわが身同様にみなすのであるからだ。

もし、領主が、自己の領地同様、他の領主のために尽くすならば、内乱が起こるはずがない。何故ならば、相手をわが身同様にみなすのであるからだ。
  
もし、卿大夫(けいたいふ)が、自分の一族同様に、他の氏族に尽くすならば、紛争が起こるはずがない。何故ならば、相手をわが身同様にみなすのであるからだ。

戦争や内紛が起こらぬ状態、それは天下の『利』であるか、『害』であるか。いうまでもなく『天下の利』である。

こういうおびただしい、『利』はどこから生じるか?
  
それは、人を憎み人に不利益を与えたために生ずるのか?
  
もちろん、そうではない。人を愛し人に利益を与えたために生ずるのである。
人を愛し、人に利益を与える行為は、『別愛』から生ずるのか?それとも『兼愛』から生ずるのか?

言うまでもなく、後者である。


であれば、この『兼愛』こそ、『天下の利』をもたらす根源である。私が、『兼愛』は正しいと主張するのは、この根拠があるからである。

『天下の害』を除いて、『天下の利』を追求すること、これが仁者の使命であると、私は主張した。そして、今、我々は『天下の利』をもたらす根源は『兼愛』にあること、『天下の害』をもたらす、根源は『別愛』にあることが理解できた。
  
すなわち、『別愛』は間違った見解であり、『兼愛』こそ、正しい見方であるとする私の主張は、道理に適っている訳である。

もし、我々が、『天下の利』を追求しようとするならば、ただ『兼愛』の道あるのみである。『兼愛』に従えば、人々の協力を得ることが出来る。

よい目とよい耳が協力し合ってこそ、ものの本質がつかめるのだ。
強い手と強い足が協力し合ってこそ、正しい行動が取れるのである。
道に目覚めた人々が互いに協力し合ってこそ、人々を正しく導くことが出来るのだ。

そればかりではなく、『兼愛』に従えば、身寄りのない老人も、救いの手が差し伸べられて天寿を全うし、孤児も、保護されて、成人することができるのである。
   
『兼愛』のもたらす利益は、これほどまでに大きい。それなのに天下の士は、『兼愛』と主張すると、すぐ非難する。何故なのだろうか?」
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by rosso_fiolencino | 2005-12-19 20:21 | 諸子百家
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